痛いよ、苦しいよ……悲しいよ。
どうして? 何でそんなことをするの?
わからない。わからない。わからない。わからない。
ただ、痛みだけが体中に残る。
部屋の中は、全てが真っ白だった。
壁があるのか? どこまでが天井なのか? 光源はどこなのか?
全ての境界が曖昧で、時間の存在すら分からないような空間で。
一人だけ、ぽつんと少年が座っていたら、いやでも目立つ。
「ねえ、お兄さんは、何をしにきたの……?」
少年は振り返りつつ、こちらに顔を向けてそう言った。
一体誰なんだよ。この子は。
「いや、俺は……狗神と……。」
「……クス。」
「何がおかしいんだ?」
俺は、一歩少年に近づいた。
その時だった。
少年は、驚くほど恐ろしい目で俺を睨んだ。
足は言うことを聞かず、動けなくなってしまった。
「だって、お兄さんで18人目。」
「な、何が?」
「・・と契約するんだ、ってここへ来たハンター。」
ゆっくりと立ち上がった少年は背伸びをして、大きく深呼吸をしだした。
相手に戦意は無い。
だが、依然として俺の足は動いてくれない。
目に見えないプレッシャー。
それを、あの少年から俺は確かに受けている。
「君は一体誰なんだ? それに、……狗神はどこにいる。」
「だーかーらー。僕だよ。」
「……何だと?」
くすくすと笑いながら、少年がこちらへやってくる。
さっきから、冷や汗が止まらない。
「僕がここに捕まえられてから、そうだね、もう数百年経ったかなぁ。」
「まさか君が『狗神』だというのか?」
「さっきからそういってるじゃん、お兄さん。」
信じられなかった。
ティガーヤさんの話では、亡霊だとか言ってたはずだ。
いや、それが間違いである可能性もあるが、……狗神は式神だ。
この子は……、どう見ても人間じゃないか。
「君は、……ここから出ようとしなかったのか?」
「考えたよ。でもね、無理なんだよ。」
「な、何故だ?」
少年、いや、狗神は周りを見渡す。
壁が天井があるのかどうかもわからない、白い空間がただ広がっている。
「僕をここに閉じ込めた集団……水竜神団とかいったっけ? あいつら、結構式神の能力やその魔力について、勉強してたみたいなんだよね。素人には分からないと思うけど、この部屋にかけられた封印はかなり特殊なんだ。」
「特殊な封印……?」
「ただ僕を、この部屋に閉じ込めるためだけの封印じゃない、ってこと。僕という『存在』を封印してるんだよね。」
存在を封印する。
さっぱり、意味がわからない。
「うーん、簡単に言えばさ。『狗神』という名前だとか、うわさだとか。そういったものが、外部に知れないような封印がかかってるってこと。」
なるほど、そういう事なのか。
確かに、俺に狗神の名を教えてくれたアポロンさんは、ハンター協会の内部の者。
リサイクルショップのおじさんもそうだ。
例え狗神という存在を封印しても、神団と特殊な関係にある以上、名前くらいは知っていてもおかしくは無い。
俺だってこの依頼を受けるまでは、狗神の名前は聞いたことが無かった。
……だが、ティガーヤさんは。
何故、あの人は知っていたんだ? やっぱり不思議だ。
「まあ、そういうわけで、存在が人に知られているって事は大きいことなんだよ。僕の名を知っている人がいれば、その人の中に狗神という存在があるってこと。でもそれを封印されて、僕の名を知っている人が少なくなれば……。狗神という存在が、薄れていく。つまり、力を失ってしまうってこと。式神に対する『存在することへの認識・怖れや信仰』、それが僕たちの力の源の一つなんだよ。簡単に説明すればこういう事だよ。お兄さんも一度封印されてみたらわかると思うけど。」
「いや、俺人間だから。遠慮しとく。」
まず、何百年も生きることができないからな。
……狗神が、封印を破れない理由はわかった。
だけど。
「じゃあ、君はずっと独りでここに?」
「うん。」
「寂しくは、なかったのか?」
「そうだね、寂しくは無かったよ。暇だったけどね。」
気のせいだろうか。
今、一瞬だけ狗神の表情が曇った。
……これは嘘、なんだな。
「お兄さんさー。僕が生まれた理由を知ってる?」
「…………。」
ティガーヤさんの言葉が、脳裏によみがえる。
「飼い主に、あーんな目やこーんな目にあわされた犬が、死んでから……。」
飼い主に酷い扱いを受けた犬。
その邪霊が狗神だと、ティガーヤさんは言っていた。
「僕はね。昔は普通の犬だったんだよ。林間街道に住んでいる男の人に飼われていた、ごくごく普通の犬だったんだ。」
「……。」
「僕はやがて虐待されるようになった。大体、人間で言うと16歳位の頃だったけどね。」
想像ができなかった。
俺は、……俺は、虐待という二文字とは無縁だった。
幼い頃に、親が死んでしまったから。
「それで……僕は死んだんだ。気がついたら、式神となっていた。式神の強大な力と、鉄壁の守りを手に入れたんだ。契約の挑戦に来たハンターは、みんな返り討ちにしてやれるほど、ね……?」
狗神は自分の手を眺めていた。
その手で、17人のハンターの命を奪ったのだろう。
あんな少年が……考えられないことだが、事実のようだ。
「だから、お兄さんが僕に契約の挑戦を望むなら。命の保障はしないよ?」
「わかってる。覚悟の上だ。」
「ふーん。ま、いいけど。……じゃあ。」
突如として、少年の周囲に黒い妖気が現れた。
妖気は少年の体を包み、一度全てを隠してしまった。
何て禍々しい力……これが、狗神か!
妖気が晴れると、そこに少年だった面影はなかった。
恐ろしい姿をした獣。
腐巫女さんの操る魔獣とは、比較にならないほどの力を感じた。
狗神の遠吠えが、封印された空間に響き渡る。
……来る!
「行くぞ、狗神!」